宗教音楽学の冒険





■ドイツ・オーストリア芸術音楽における「大ドイツ主義」の成立過程(2017.12.4)

2014年4月12日、新宿・花園神社において行った発表の原稿です。時系列では「たましずめ音楽論」と「1000年前の『ドレミの歌』」の間に入ります。


I.序論にかえて
「音楽とは良く節を付ける知識である。
」 アウレリウス・アウグスティヌス(354-430):『音楽論』第6巻より

今日は本題に入る前に、近頃ニュースでもさんざん騒がれた「偽ベートーヴェン事件」について、音楽学を研究する者として、コメントしておきたいと思います。

この事件は、佐村河内学という耳の不自由な作曲家が、独学でピアノやクラシック音楽を学び、交響曲などを作曲し、その作品の素晴らしさが話題となって、CDがリリースされ、NHKスペシャルで採り上げられていたのが、実はすべて嘘であったというものでした。ことの経緯については、皆さんもご存知のことでしょうから、ここでは省略いたします。

私が問題としたいのは、作曲家であれ音楽学者であれ、音楽評論家であれ、彼の作品の嘘を見破れなかったという点でして、なかでも、彼を賞賛し、CDの売り上げに加担した専門家さえいたという点です。というのは、音楽の専門教育を受けた者ならば、たとえば彼の《交響曲第1番「Hiroshima」》を少しでも聴き、彼のプロフィールを読めば疑問に感じるはずのことが指摘されないまま、彼の名声が高まっていったように見えるからです。

ここで冒頭に掲げました、キリスト教の教父の一人アウグスティヌスの言葉を見てみます。「音楽とは良く節を付ける知識である」と彼は音楽を定義しているのですが、これは音楽全体の定義ではなく、音楽を作る行為、すなわち作曲のことを言っているかと思います。作曲とは、音と音を、たとえば横方向に組み合わせてメロディとしたり、またアウグスティヌスの時代にはなかったことですが、縦方向に組み合わせて和音としたりしながら、全体を一つのまとまった音の現象として組み立てる技のことです。そして、少なくとも他人が聴いて納得できるレベルの音楽を組み立てるには、過去の作品に接して、その作品の組み立て方を模倣することで吸収して学んでいかなければなりません。これを「エクリチュール」と呼び、音楽大学などで作曲を学ぶ者であれば必ず行っていくこととなっています。たとえば、ベートーヴェンのピアノ・ソナタであるとか、バッハのインヴェンションから学び始めます。

ところが、佐村河内さんの経歴をWikipediaで見ると、現代音楽を嫌って、アカデミックに作曲の勉強をしなかったと読めそうです。彼の交響曲の音楽様式は、19世紀の終わり、たとえばマーラーに近いと評されているわけですが、「エクリチュール」の勉強をせずに、つまり、バッハやベートーヴェンの音楽様式を学ばずに、インスピレーションであれだけの作品を書いたということになりそうなわけで、それは彼が天才であったとしても、いくら何でも不可能に思えるわけです。バッハやベートーヴェン、モーツァルトやマーラーとて、過去の音楽を学ぶことで、自分のスタイルを確立していったわけで、そうした努力の積み重ねなしに「天才」は存在しないのです。このことをなぜ、専門家たちが指摘しなかったのか? おそらくは、私もそうだったのですが、たとえばNHKスペシャルの宣伝で曲の一部を聴いたとして「なあんだ、マーラーの亜流じゃないの」とそれ以上の関心を持てず、結果として、彼の壮大な嘘が広がっていくことも知らずに過ごしてしまったということなのかもしれません。もちろん、彼の音楽を持ち上げることでお金を貰っていた専門家は別の話ですが。

佐村河内さんは、「耳の不自由な天才がインスピレーションによって音楽を創造し、大衆に感動を与える」という自己演出を行っていたように思います。「恵まれない天才芸術家」のイメージは、実は19世紀のドイツで生まれたもので、明治維新の後、主としてドイツから芸術音楽を学んだ日本人にも、そうした見方は受け継がれていきます。作曲家の偉人伝には「天才モーツァルト」や「努力家ベートーヴェン」といったイメージが登場しますが、そうした偉大な天才を生み出したドイツないしオーストリアもまた偉大だという思想があります。これは当時のナショナリズムと一体となっておりまして、本日の「大ドイツ主義」とも関わっています。それは後でお話するとして、日本人がそうした見方を今日においても鵜呑みにして、音楽は一部の天才だけが創造行為を行い、大衆はただそれをありがたく拝聴し消費するだけだと思い込んでいるとしたら、それは不毛なことです。そうした音楽のアイデンティティを考えるうえでも、佐村河内さんの事件は、もっと深い次元で考察されるべきだと私は感じています。とはいえ、今日の本題はそこにはありませんので、先へ進もうかと思います。


II.「大ドイツ主義」について
ドイツが注目しているのは、プロイセンの自由主義ではなく力であります。(…略…)目下の大問題(訳注:ドイツ統一問題)の解決は、演説や多数決、これらは1848年および1849年の大きな欠陥でありましたが、鉄と血によってなされるのであります。」
オットー・フォン・ビスマルクによる1862年の演説

まず、今回のテーマにおいて重要な語句である「大ドイツ主義」について、辞書的な説明をさせてください。

「大ドイツ主義」とは、ドイツ語を母語とする国を統合しようとする考えで、特に1848年に開催されたフランクフルト国民会議で提唱されたものを言います。この会議の後、ドイツ統一とオーストリアの統合が目指されることになるわけですが、北ドイツがプロテスタント、南ドイツおよびオーストリアがカトリックと宗教が異なること、また、ドイツ側のプロイセンとオーストリアの主導権争いを原因として不調に終わりました。その結果として、ドイツは「小ドイツ主義」の立場をとって、ドイツの統一を目指し、紆余曲折はありますが、プロイセンを中心としたドイツ帝国が1871年に成立することとなります。その後、ドイツ帝国は第一次世界大戦で敗北して崩壊し、次いで成立したヴァイマル共和国もまたナチス・ドイツによって終焉の時を迎えます。皮肉なことに、ドイツとオーストリアが併合し「大ドイツ主義」が完成されたことは皆さんもご存知のことと思います。

さて、冒頭に掲げたビスマルクの言葉は、武力によってのみ「大ドイツ」は完成されるということを意味しています。こうした「大ドイツ主義」と作曲家がどのように関わっているかが、今回の発表のテーマです。政治的な動きと並行して、または先行して、音楽上の「大ドイツ主義」とも言えるような動きがあったのではないか。私はそのように考えています。並行した音楽的な動きとして、具体的には、楽劇という音楽作品でゲルマン民族の神話の世界を音楽化したリヒャルト・ヴァーグナーと、ベートーヴェンの古典的側面を継承したとされるヨハネス・ブラームスを挙げることができます。しかし、彼ら以前にも、そうした動きがあったことであり、むしろ音楽こそ政治的な「大ドイツ主義」の原動力ではなかったか、というのが、今回の発表でお伝えしたいことの一つでもあります。そこで、政治的な「大ドイツ主義」の時代、すなわち、ヴァーグナーとブラームス以前に、ドイツ・オーストリアの作曲家とナショナリズムがどのように関わってきたかをおさえておきたいと思います。


III.ドイツ・オーストリアの作曲家とナショナリズム(19世紀前半まで)
「ドイツはフランス様式とイタリア様式を自らの固有なものと混ぜ合わせながら、一つの世界音楽を作り出したのである。(…略…)これこそがモーツァルトの業績だった。」
カール・フランツ・ブレンデル『イタリア、ドイツおよびフランスにおける音楽の歴史』(1852年)
吉田寛『民謡の発見と〈ドイツ〉の変貌: 十八世紀 (“音楽の国ドイツ”の系譜学)』。p.156

「ナショナリズム」とは、日本語では「民族主義」ないし「国民主義」と訳されることが多い考え方ですが、アーネスト・ゲルナーによれば、「政治的な単位と文化的あるいは民族的な単位を一致させようとする思想や運動」と定義されています(wikipediaより)。ヨーロッパにおけるナショナリズムは、ナポレオンの時代のフランスで、自由かつ平等である国民の結合した国家という形で具現化し、次いでナポレオンのフランスに対抗する形で、ドイツを含む周辺に広まっていったとされています。音楽ももちろん、ナショナリズムと関わっているのですが、ナポレオン以前にそうした動きがなかったわけではありません。

たとえば、ルネサンス期においては、ドイツ人は自らの音楽が、周辺に比べて劣っていることを自覚していました。この時代には、フランドル(今のベルギー)、フランス、イタリアといった国が音楽的に優れているとされ、次のバロック期においては、特にイタリアがドイツ人作曲家の留学先となり、音楽創作の模範とされることとなります。それに比べてドイツ人による音楽は粗野なものとして蔑まれていました。ところが、そうした風潮が次第に変わっていくこととなります。その辺りの経緯は、先に引用しました吉田寛さんの著書を含めた『〈音楽の国ドイツ〉の系譜学』のシリーズでつぶさに検討されておりますので、私も大いに参考にさせていただきました。

さて、自らの音楽を粗野なものとして、イタリアやフランスの音楽様式を模倣することで創作を行わざるを得なかったドイツ人ですが、その劣等感が次第になくなっていきます。発想には乏しいけれども、模倣する才能や努力はあり、丹念に作りこむことができると評価されるようになるのです。その行きつく先が、冒頭の引用のように、ドイツ人は、様々な様式を巧みに組み合わせて、普遍的な音楽を創作できる、という見方に他なりません。実際、モーツァルトは、幼い頃から父親に連れられ、イタリア、フランス、イギリスなどヨーロッパ各地を訪れ、様々な音楽様式を身につけました。また、最後の10年間には、ヴィーンに定住しながら、スヴィーテン男爵のはからいで、バッハなどバロックの巨匠たちの音楽を学ぶこともできました。

私の前回の発表では、モーツァルトの未完の《レクイエム》には、彼の先輩にあたる作曲家の作品が引用されていることをお話しいたしました。たとえば、ヴィーンのシュテファン大聖堂の楽長でありサリエリの師匠でもあったガスマン、有名なハイドンの弟でザルツブルクでの親しい先輩でもあったミヒャエル・ハイドンの《レクイエム》、《メサイア》で知られるヘンデルの作品、さらには弟子のジュスマイヤーが補完したとされる個所にはバッハの長男フリーデマン・バッハの作品が引用されていました。それはなぜなのか? 私は、モーツァルト自身が死を目前として、偉大な先輩たちに敬意を払ったものと解釈しました。ただ、今になって不思議に感じるのは、引用した作品はすべて、ドイツないしオーストリアの作曲家たちの作品であるという点です。その中でも特に興味深いのは、冒頭の入祭唱では、ルター派(ルーテル派)のコラール(賛美歌)旋律が2点、引用されている事実です。譜例1がモーツァルトとガスマンが引用したと考えられるコラールで、譜例2(割愛します)がモーツァルトのレクイエム、譜例3がまた別のコラール、譜例4(割愛します)がコラールが引用されたモーツァルトです。その部分をモーツァルトの《レクイエム》を聴いて確認してみましょう(録音は割愛します)

ガスマン:レクイエムより「入祭唱」前奏(管理人作成のデータ。楽器指定は適当です。)

譜例1

譜例2

いずれもBach Cantatas Website(http://www.bach-cantatas.com)より引用。

カトリックに属するモーツァルトが、カトリックの典礼である死者のためのミサ(レクイエム)のために、なぜ、反カトリックであるはずのルター派のコラールを引用したのか。この疑問に十分答えるだけの研究は今後の課題ではありますが、モーツァルトの生きた時代には、同じドイツ語を話す人々にとっては、音楽芸術は共有すべき文化であるという考え方があったのではないかと推察できるように思います。そこで、もう一つ、別の事例を見ていきましょう。

ゲオルク・ヨーゼフ・フォーグラーというドイツ生まれの作曲家がいます。彼が生まれたのは1749年、亡くなったのは1814年ですから、モーツァルトより6年早く生まれて、15年も長生きしたことが分かります。フォーグラーは作曲家であり、音楽教師でもあり、カトリックの司祭でもありました。師匠の一人は、モーツァルトも学んだイタリアのマルティーニ神父であり、弟子には、オペラ《魔弾の射手》で知られるヴェーバーがいます。彼の晩年、1805ないし1806年に作曲された作品に《レクイエム》がありますが、ここでもルター派のコラール「血潮したたる主の御頭」が引用されています。このコラールは、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの《マタイ受難曲》でも知られる受難の賛美歌で、イエスが十字架にかけられた理由を想起させる内容となっています。それがカトリックの音楽に、しかも聖職者によってわざわざ引用されているのです。下の譜例がコラールで、フォーグラーの譜例は残念ながらありません。聴いてみてください。

譜例3

Bach Cantatas Website(http://www.bach-cantatas.com)より引用。

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フォーグラーのレクイエム

この後、ドイツでは、バッハの復興運動が起こります。たとえば、メンデルスゾーンによる《マタイ受難曲》の復活演奏(1829年)、バッハ全集(旧バッハ全集)の刊行(1850年)といった出来事が代表的なものかと思われます。こうしてドイツ人は、自らの音楽の新しい創作を、他と比べて遜色のない優れたものと位置づけつつ、伝統を掘り起こして賛美し、音楽によるナショナリズムを形成していったのではないでしょうか。


IV.「大ドイツ主義」の時代と音楽(ヴァーグナーの場合)
「私は最もドイツ的な人間である。私はドイツ精神である。」
リヒャルト・ヴァーグナー:1865年9月11日の日記
吉田寛『ヴァーグナーの「ドイツ」―超政治とナショナル・アイデンティティのゆくえ』。p.197

ご存知の方が多いかと思いますが、まず、ヴァーグナーの音楽を少し聴いてください。《ニュルンベルクのマイスタージンガー》の前奏曲です。(録音は割愛します)

作曲者リヒャルト・ヴァーグナーは、1813年にザクセン王国のライプツィヒに生まれました。ヴァーグナー家は、音楽を職業にしていたわけではありませんが、彼は親交のあったヴェーバーから強い影響を受けつつ、音楽家を志して学びました。しかし、青年時代は挫折の連続で、さらに1849年にはドイツ三月革命に参加し、その失敗によりスイスへと亡命します。そうした状況で作曲を続け、「楽劇」の理論を作り上げ、理論に沿った作品を書き始め、次第に名声を高めていきます。ちなみに「楽劇」とは、レチタティーヴォとアリアによって成り立つ歌劇(オペラ)とは異なり、それらが渾然一体となってドラマが止まらずに進行していく形の音楽劇(Musikdrama)のことで、《マイスタージンガー》もその一つです。ヴァーグナーの音楽と理論は、19世紀後半のドイツとオーストリアのみならず、ヨーロッパを席捲しました。彼はまた、音楽評論の分野でも注目すべき発言をいくつも残しています。たとえば、ベートーヴェンの《交響曲第9番》について、ヴァーグナーが考えたことに触れておきたいと思います。

18世紀のドイツにおいて、器楽とは意味を伝えようとしても曖昧であるため、声楽よりも劣ったものとされていました。ところが器楽は言葉では言い表せない何かを表現できるため優れているという方向に向かいます。これが音楽におけるロマン主義の始まりとなり、交響曲に美学的な優位性が与えられることになりました。ベートーヴェンの「第九」も交響曲ですが、ご存知の通り、第4楽章ではシラーによる歌詞が音楽化されています。ヴァーグナーは、この論理を再度ひっくり返します。器楽が語ろうとする感情は曖昧で原始的であり、声楽が語ろうとする人間の心との統合によってはじめて、最高のものとして感じられるようになる、と考えるのです。しかし、「第九」は彼にとって、まだ不十分なものと感じられました。音楽史のさらなる進歩のために、ヴァーグナーは「楽劇」を創作するのです。

ヴァーグナーは、理想の音楽である「楽劇」のためには、ドイツ語によるゲルマン民族の神話こそ最高の素材と考えました。政治にも関心の深かった彼は、プロイセンのビスマルクの政策にも共鳴し、「ドイツ精神」を称揚します。しかしながら、ビスマルクから劇場建設の支援が得られなかったことに失望して、現実のドイツではなく、空想の「ドイツ」を夢想し、ユダヤ人を金満主義と痛烈に批判することで、「ドイツ」を理想化する方向に進みます。このことが、20世紀にどのように帰結したのかは、皆さんもご存知の通りかと思いますので説明は省きます。


IV.ひとつの、ドイツの、レクイエム(ブラームスの場合)
「(ドイツ・レクイエムの)歌詞については、私は大いに喜んで『ドイツの』を取って『人間の』と置き換えることを、認めなければなりません。」
ヨハネス・ブラームス:1867年10月9日付の書簡

最後に、ブラームスの《ドイツ・レクイエム》を採り上げて、ヴァーグナーの考えと対置してみようと思います。ヨハネス・ブラームスは、1833年にハンブルクで生まれ、まずはピアニストとして、次いで作曲家として活動しました。シューマンから高く評価され、1862年からヴィーンに定住し、《ドイツ・レクイエム》によって彼の名声は高まります。彼はベートーヴェンを深く敬愛し、いわゆる「絶対音楽」によってベートーヴェンの音楽を継承する者と目されます。この点は、音楽と言葉を統合した「総合芸術」によって、ベートーヴェンを出発点として音楽を進歩させようとするヴァーグナーと好対照であると言えます。

《ドイツ・レクイエム》について話を進めましょう。これは「聖書の言葉に基づく、(一つのein)ドイツのレクイエムEin deutsches Requiem nach Worten der heiligen Schrift」というのが正式なタイトルとなっているように、ドイツ語の聖書を歌詞とした作品です。当時、カトリック教会は自国語聖書を認めていませんから、ルター訳のドイツ語聖書から歌詞を選択した以上、プロテスタントの立場から書かれたことが分かります。そう考えると、「ドイツの」を「人間の」と言い換えたいと言ったブラームスの言葉は、真に受けることができないように見えます。というのは、全ての人間のための普遍的な言葉ということなら、ドイツ語ではなくラテン語の方が適切に思えるからです。ただ、ブラームスを弁護できそうな点もあります。たとえば、歌詞の中に、イエス・キリストが復活すること、また、イエスの死によって人間の罪が贖われたということが脱落している点を考えてみます。これは、実は、熱心なクリスチャンであるならば「この二つがキリスト教を成り立たせているものなんじゃないの?」と怒り出しそうな問題なのです。カトリックであっても、この二つは核心的に重要な問題に違いありません。ブラームスの書簡からは、彼が意図的に、こうした個所を排除したことが分かっています。では、それはなぜなのか?

まったくの私見ですが、私は、ドイツ語を話すすべての人々が参加できる音楽の場を用意しようとして、ブラームスは歌詞の選択を注意深く行ったのではないかと考えます。ヴァーグナーは、ユダヤ人を拝金主義だとして排除しようと考えましたが、ブラームスはその逆を音楽で行ったのではないかと思うのです。そうした目で歌詞をあらためて読んでいきますと、たとえば「イエス」の言葉はあっても、イエスをキリスト(救い主)として賛美する言葉は見当たりません。また、歌詞の出典は、新約と旧約の双方にまたがっていますが、新約から採られている個所のいくつかは、旧約に同じような内容があるものです(これを並行個所と言います)。さらには、この作品でもカトリックのレクイエムと同様、最後の審判を表現する個所があるのですが、カトリックのレクイエムだとトロンボーンやトランペットといった「ラッパ」で描かれた審判を告げ知らせる音が、ブラームスの作品だとラッパには聞こえず、角笛、つまりユダヤのショーファールのように聞こえるという点も指摘しておきたいところです。

当時のヨーロッパでは、多くのユダヤ系市民が生活し、音楽活動においても、また音楽を享受する者としても、欠くことのできない存在になっていました。《ドイツ・レクイエム》が第一に演奏会を念頭において作曲されている以上、ユダヤ系市民を排除すべきではないし、そもそも同じドイツに生きる運命共同体なのではないかと、ブラームスは考えたのではないでしょうか。ブラームスにとって「普遍的」であるとは、ヴァーグナーのように、民族としてのドイツ人が過去において共有してきなものを使って優れた音楽を作り、普遍的な価値まで高めるということではなかったように見えます。ブラームスにとって、普遍的とは、もっと開かれたものであったように思われるのです。

《ドイツ・レクイエム》の歌詞の内容を見ると、カトリックのレクイエムが死者の魂の安息のために神にお願いするというものであるのに対して、生きた者の悲しみを癒し、慰めるものであることが分かります。ここには、宗教が文化の一部となり、個人のプライベートな心情の問題となった、当時の北ドイツ・ルター派の動きが背景にあるようにも見えます。だからこそ、ブラームスは、すべてのドイツ人にとって最大公約数的な宗教的な感情を満たすテキストを選んだと私は考えています。

では、肝心の音楽を少し聴いてみたいと思います(録音は割愛します)。

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ブラームス:ドイツ・レクイエム(アルノンクール指揮)


V.まとめと今後の課題
「音楽は、『聴く人』としての主体――聴き手だけでなく、作曲者も演奏家もまた『聴く人』である――の主観にもとづく解釈によって、特定の意味内容としての形をとって噴出し、あるいはまた、どのような特定の意味内容としても形づけられないままの、未分節で(すなわち抽象的で)力動的な可能性の意味場として、輝出するのである。」
近藤譲『聴く人(homo audiens)──音楽の解釈をめぐって』。pp.158-159

最後に、今日の発表をまとめて、今後の課題をお話しておきたいと思います。ブラームスとヴァーグナーはともに、ベートーヴェンの後継者たることを目指し、ドイツ語を話す人々が共有できる音楽文化の創造を目指していたという意味では「大ドイツ主義」をとっていたという点で、共通しているかと考えられます。ただし、そうした目的を達するために両者のとった音楽的手段は、まったく異なっていました。ヴァーグナーは、ゲルマン民族の神話の世界を題材とすることで、方向性を限定していきました。ユダヤ人を拝金主義者と批判したことも、その一環だと考えられます。そうして、ドイツ音楽を世界最高の普遍的な価値に高めるべく、創作活動を行っていました。一方、ブラームスは、反対に、ドイツ語を話す者であるなら、たとえユダヤ人であっても排除しないという考え方の下、創作していったように見えます。ただ、その音楽はやはり、ドイツ的であったことは、皆さんもお感じのことかと思います。

ドイツの作曲家たちは、19世紀に、ナショナリズムの高まりとともに神格化され、「音楽の国ドイツ」の神話が成立しました。天才がインスピレーションで芸術を生み出す、天才は恵まれない境遇に置かれているといった神話です。ここで最初の佐村河内さんの事件に戻ります。わたしたち日本人が明治以来、ドイツ音楽を受容してきた過程で、彼らの「神話」までもそのまま受け入れてしまったことは、佐村河内事件を生み出した根本だったように思えます。いわゆる「現代音楽」の作曲家で、私の恩師の一人でもある近藤譲さんの言葉を挙げました。音楽は、聴く人によって、どのようにでも解釈されるものであります。ならば、過去の神話を真に受けず、自分なりに自由に、創造的に音楽を聴けばいいのではないか。私はそのように恩師の言葉をひとまず今、受け止めています。しかるに日本の音楽教育は、音楽を音と音とのつなぎ方と捉えず、ヴィヴァルディの《四季》を聴かせて絵を描かせるといった次元にとどまっています。つまり、音楽を知識(ただしアウグスティヌスのいう「スキエンツィア」)としては捉えていないのです。これでは、CDの売り文句に騙されて、ただ消費するだけの存在にとどまるはずです。たとえ、聴くだけの方法で音楽に関わるとしても、何が本物なのか、聞き分ける術を教育の中で身につけるようにしたいものです。

さて、今回の発表について考えている最中に分かったことがあります。ロマン派の音楽を生み出したのは、どちらかというと北ドイツ、つまりプロテスタント地域のような印象があるのですが、モーツァルトやフォーグラーといったカトリック側の作曲家たちは、もっと早い時期にプロテスタントのコラールを引用することで、ドイツは一つだと示唆していたのではないかということです。そのように見ると、1770年頃に、「教会交響曲Sinfonia da chiesa」という交響曲が作曲されていたことが想起されます。たとえばハイドンの《交響曲第26番「哀歌」》は、グレゴリオ聖歌の「エレミヤ哀歌」の旋律が引用されていることからこの名があるのですが、教会の中で、ミサの前に祈りの感情を高めるために演奏されたと考えられています。この祈りの感情が、崇高な美しさにつながるものであれば、ロマン派の始まりは、もしかするとカトリックの教会の中にあったのかもしれない。ただ今回は、そこまで掘り下げる余裕がありませんでした。今後の課題としたいと思います。

以上、ご清聴ありがとうございました。




■1000年前の「ドレミの歌」―― 音楽と宇宙を貫く調和ハルモニアの原理 ――(2017.12.3)

2017年9月16日、新宿・花園神社で催された講演の原稿です。

I.はじめに
今日は、「1000年前の『ドレミの歌』」と題しまして、副題にもありますように「音楽と宇宙を貫く調和(ハーモニー)の原理について、お話しして参ります。ここ数年来、「たましずめ」と音楽の関わりを考えてきましたが、「たましずめ」の根本にある原理こそ「調和(ハーモニー)」であるように考えております。そこで今回の発表では、調和の原理が古代と中世でどのように考えられていたか、歴史を振り返っていきます。ただし、文献の紹介になってしまうと無味乾燥になりますので、音楽も聴きながら、肩の凝らない範囲でお話しできるよう心掛けたいと思います。


II.新旧の「ドレミの歌」
1.映画《サウンド・オブ・ミュージック》
1000年前まで遡る前に、「ドレミの歌」について確認しておきます。この歌は、1965年封切りのアメリカのミュージカル映画《サウンド・オブ・ミュージックThe Sound of Music》のナンバーの一つで、家庭教師としてトラップ家にやって来たマリアが、音楽を忘れて久しい7人の子供たちに、音楽の基礎として階名、つまり「ドレミ」を教えるシーンで歌われるナンバーです。歌詞を見ますと、次のように、階名の一つ一つに単語が当てはめられていることが分かります。

ド:doe(牡鹿)  レ:ray(光線)  ミ:me(わたしを)  ファ:far(遠くへ)
ソ:sew(縫う)  ラ:単語なし   シ:tea(お茶)

故・ペギー葉山さんの日本語版も含めると、日本人なら誰もが知っている「ドレミの歌」ですが、実は1000年前に元歌があったのではないかというのが、今日の発表の前半部分です。「ドレミの歌」は、音楽を手ほどきするという文脈で歌われていたわけですが、元歌も同じように、階名を生徒に教えるための教材として使われていたのです。そして、「ドレミ」という階名の呼び方も、その元歌から生まれました。この後、その歴史を振り返ってまいります。

ちなみに、《サウンド・オブ・ミュージック》は実話に基づいております。実際に修道女見習いのマリアがトラップ家に派遣され、トラップ男爵と結婚し、家族で合唱団を組み、その後、ナチスの支配を嫌ってアメリカに亡命して「トラップ・ファミリー・シンガーズ」としてステージに立ち続けたのです。そのエピソードが本としてまとめられ、次いで旧・西ドイツで1956年に《菩提樹》として映画化され、それが1959年、ブロードウェイでミュージカルとなり、そして、この映画が生まれました。

ちなみに、《サウンド・オブ・ミュージック》とはお話の文脈で言えば、音楽好きだった母親が亡くなり、家の中から「音楽の音sound of music」が消えてしまい、一家がそれを取り戻すということになりますが、主題歌としての「サウンド・オブ・ミュージック」では、自然が「音楽の音」に満ちあふれている、とう歌われており、「Music」は必ずしも人間の創り出す音楽を意味するものではありません。この発想はまさしく、中世の音楽思想であり、「ドレミの歌」には1000年前の元歌があるという説の傍証になるかと思われます。

作品データ:映画《サウンド・オブ・ミュージック》
作曲:リチャード・ロジャース  作詞:オスカー・ハマースタイン2世
脚本:ハワード・リンゼイ、ラッセル・クラウス
出演:ジュリー・アンドリュース(マリア)、クリストファー・プラマー(トラップ大佐)他
原作:1956年のドイツ映画『菩提樹』ならびにマリア・フォン・トラップの自伝『トラップ・ファミリー合唱団物語』
封切:1965年

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2.1000年前の「ドレミの歌」
さて、西洋音楽の歴史を振り返ってみましょう。1000年前の西欧といえば、アルプスの北はフランク王国の時代です。いわゆるクラシック音楽の源とされる「グレゴリオ聖歌」は、9世紀ごろからアルプスの北で生まれ、広がっていきました。聖歌はもともと口伝えで伝えられてきましたが、グレゴリオ聖歌はまだ新しい聖歌であり、修道士たちも不慣れな者が多かったのか、十分に暗できなかったため、テキストに音の高低を表す記号が添えられるようになりました。ところがそれでもまだ足りず、音高を示す横線も加わります。これが楽譜の始まりです。

では、下の楽譜を見てください。これは、《聖ヨハネ賛歌》という歌なのですが、ちょっと歌ってみます。


楽譜と日本語訳:水嶋良雄編
『CANTUS GREGORIANUS グレゴリオ聖歌集』(エリザベト音楽大学宗教音楽学科グレゴリアン研究室、1980年)、p.384。

歌詞大意:
あなたのしもべが、のどを開いて、
素晴らしいみわざを たたえうるよう、
けがされた唇の罪を除いてください。
聖ヨハネよ。

この楽譜の読み方なのですが、4本線の一段目左端の上から二本目のところに、黒い小さな四角が3つ、左に一つ、右に二つありますね。この左側の四角の位置が「ファ」だと思ってください。要はヘ音記号です。ですから、一番目の音符、下に「T」と歌詞が記されている音符は、「ファミレド」と4つ下がって「ド」となります。ただし、この歌詞は実は一番左の大きな「U」から言葉が始まりますから「Ut」となります。

この要領でさらに読み進めていきますと、「resonare」とある箇所の「re」は「レ」の音に、「Mira」の「Mi」は「ミ」の音に、もうお分かりかと思いますが、「famuli」の「fa」は「ファ」、「Solve」の「Sol」は「ソ」、「labii」の「la」は「ラ」になっているわけです。

ところが、この歌には問題があります。まず、「シ」の音が欠けています。そこで後に、おそらく歌詞の最後の「Sancti Joannes」の頭文字を「SI」と取って「シ」とされたようです。「J」は中世では「I」で表記されていました。また、「ド」ではなく「Ut」となっていますね。「Ut」は今なおフランス語の階名には残っていますが、発音がしにくかったのか、おそらく「Dominusu(主)」の頭文字を取って「ド」とされたようです。

この新しい歌い方は、修道士グイド・ダレッツォにより考案され、彼の著作によっても広まっていくこととなります。彼は991年もしくは992年に生まれ、1050年に亡くなっていますから、ちょうど1000年前に、彼なりの「ドレミの歌」で、若い修道士たちに音楽を教えていたわけです。

では、グイード流の音楽教育をほんの一部ですが実践してみましょう。プリントの掌の写真(下記リンク参照)を見てください。これは「グイドの手」と呼ばれていまして、実はどのように使われたか正確なことは解かっていないのですが、何となく推測はできます。親指の先には「Gama-ut」、その下には数字で「1」とありますね。ここが最低音でギリシャ語の「Γ(ガンマ)」は「G」と読み替えられますから、音名の「G」となります。そして、数字を順に辿りますと、「ut・re・mi・fa・sol・la」と6つの音が出てきます。ちなみに、「Gama-ut」は後に「gamut(ガミュット)」と読まれて、「音階」の意味になりました。

参考サイト
wikipedia:Guidonian hand

ところが、人差し指の根元の数字の「4」の箇所を見てください。「C-fa-ut」とあります。音名では「C」のこの音は、音階の4つ目の音で、階名では「fa」に当たりますが、ここで転調すると「ut」になることを示しているのです。先程、「シ」がないとお話ししましたが、音域が広ければ途中で読み替えを行いますので、「シ」が必要ないわけです。では、「グイドの手」を使いながら、「ヨハネ賛歌」を歌ってみます。

おそらく、このように、歌を歌いながら手を使って、階名を身につけていったことと思われます。ちなみに、この手の画像は、グイド自身の著作にはありませんが、おびただしい文献に掲載されています。ご興味のある方は英語の「guidonian hand」で画像検索してみてください。


III.中世と古代の音楽理論と調和の原理
1.中世の音楽理論
ここでは、現在まで使われている音楽の基本的な部分が生まれた中世の音楽理論について振り返っておきたいと思います。当時の音楽は、大学では自由七学科(文法学・修辞学・論理学/算術・幾何・天文学・音楽)の一つとして教えられていました。音楽は「クワドリウィウム」と呼ばれた数学的な4学科の一つでしたから、音楽を学んだ人は、数学や天文学にも通じていたわけです。まず、彼らが学んだと思われる中世の音楽思想について振り返っておきましょう。

5世紀から6世紀にかけて活動した哲学者にボエティウスという人がいます。彼はローマ人でしたがアテナイで学び、古代ギリシャの哲学に通じていました。その中でも、プトレマイオス(トレミー)の音階理論を踏まえ、著書の『音楽教程De institutione musica』で、古代ギリシアの音楽論を紹介しています。ここが重要なのですが、ボエティウスはこの本の中で、音楽を「ムジカ・ムンダーナ」、「ムジカ・フマーナ」、「ムジカ・インストルメンターリス」の3つに分類しています。「ムジカ・ムンダーナ」は「世界の音楽」という意味で、これは世界が調和している状態のことを指しています。「ムジカ・フマーナ」は「人間の音楽」なのですが、わたしたちが聴く音楽のことではなく、人間が調和している状態のことを指します。「ムジカ・インストルメンターリス」は「道具の音楽」のことで、これが楽器や声を道具にして音として響く音楽となります。ですから、先程も触れました《サウンド・オブ・ミュージック》というタイトルと主題歌の歌詞には、「Music」には、調和のとれた自然としての音楽から聞こえてくる小川のせせらぎや鳥のさえずりという含みもあるのではないかと思われるのです。ここで「調和」という言葉に触れました。今日の発表の核心です。「調和」は英語で「harmonyハーモニー」ですが、中世の理論家たちは「アルモニア」もしくは「ハルモニア」と呼んでいました。では、「ハルモニア」について、中世の理論家たちが依拠した古代ギリシャの理論家たちはどのように考えていたのでしょうか。

では、ここで中世の音楽を聴いてみましょう。「オルガヌム」という曲種で、グレゴリオ聖歌を柱として、そこにハーモニーが付けられています。ただ、ハーモニーと言っても、当時の教会で許されていたのは、完全8度(オクターブ)と完全5度(ドの上ならソの音程)、また完全4度(ドの下ならファの音程)だけでした。ちょっと異様な響きがするかもしれません。

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ゴシック期の音楽

2.古代ギリシャの音楽理論
中世の音楽理論家たちは、細々と伝えられていた古代ギリシャの音楽理論に依拠していました。多くの哲学者たちが音楽について考えていましたが、後世に最も影響を与えたのは、何と逝ってもピュタゴラス(BC.582-496)です。今日では「三平方の定理」で知られる数学者といったところですが、実はこの不完全な世界の背景には数による完璧な、調和の世界があると考える思想家でした。ですから、音楽も宇宙も数学によって説明しようと試みていたのです。彼は「10」を完全な数とみなして、「1・2・3・4」を足すと10になるところから、世界はこの4つの数の比例関係で成り立つと唱えました。

 伝説によりますと、ピュタゴラスは鍛冶屋のハンマーの音から、音程関係の数比を発見したとされています。たとえば、オクターブは「1:2」、完全5度は「2:3」、完全4度は「3:4」となります。この数比で音を和音を鳴らすと、「うわんうわん」という唸りが出ません。そこで、ピュタゴラスの考え方は調律法として普及していきます。ただ、ピュタゴラスの理論で、「ドレミファソラシド」 と残りの半音すべてを導き出していくと、最終的に、どこかに聴くに堪えない和音が生まれてきます。そこで、音楽が複雑になっていくにつれ、別の調律法が採用されるようになっていきます。代表的なものが「平均律」なのですが、後ほど説明したいと思います。

さて、ピュタゴラスは宇宙についても論じています。彼は宇宙も音程関係と同じ数比で調和していると考えていたのです。彼の理論に従う者たちは、惑星の運行に音程関係を当てはめました。次の図をご覧ください。


上の図は、ルネサンスの音楽理論家フランキヌス・ガフリウスの『音楽教程Practica Musice』の惑星の配列と音程を関係付けた図です。16世紀も終わりの著作なのですが、ピュタゴラスに始まる考え方を踏まえています。図は細かくて見にくいかもしれませんが、下の真ん中に「TERRA」、つまり地球があり、右端の縦の〇の列に太陽系の惑星が、地球に近い順で並べられています。月も太陽も、当時は惑星に数えられていたようです。そして、惑星の左側に「Tonus」とか「Semitonus」という文字が見えませんか。「Tonus」は全音のことで「Semitonus」は半音のことを指しています。

ここで余談ですが、皆さんは曜日の配列はどのようにして決められたかご存知でしょうか。左の図で下から順に「月・水・金・日・火・木・土」と数えてみてもダメですね。そこで、先程の「完全5度」の出番です。「月」を「1」として一つずつ数えます。5番目は「火」ですね。「火」から5番目は「水」となります。次は「木」というように、今の曜日の順番が導き出せるわけです。実は、この方法は、ピュタゴラスが調律する際に使った方法と同じなのです。「ド」を「1」として、完全5度上は「ソ」、その次は「レ」、さらに「ラ」、そして「ミ」と続いていきます。 ただ、この曜日の決め方は、ピュタゴラスの発明ではなく、古代メソポタミアに期限があると考えられています。そうすると、音程関係や調律方法も、期限はメソポタミアにあるのかもしれません。

では、ここで、古代ギリシャの音楽と古代シュメールの音楽を聴いてみましょう。ただし、ギリシャの方は楽譜が残っていますが、シュメールの方は、楽譜ではないかな、と考えている人がいるだけです。また、どちらも細かい点は演奏者がイマジネーションを発揮して埋めておりますので、これが古代の音楽だ、と確定はできないことを申し添えておきます。

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Music of the Ancient Sumerians Egytians & Greeks


IV.近代の宇宙論と音楽
1.ケプラーの宇宙論
ここまでで、古代から中世、また近代の始まりにいたるまで、音楽と宇宙が同じ原理に基づいていると考えられてきたことが見えてきたかと思います。では、ルネサンスの宇宙論はどうだったか、ケプラーを例に見ていきたいと思います。

ヨハネス・ケプラーJohannes Kepler(1571-1630)は、ドイツ人で、「ケプラーの法則」を唱えたことで有名です。先程のガフリウスの例のようなイメージではなく、理論的に天体の運動を解明したことが彼の業績と言えます。、従来は、プトレマイオスによって完成された「天動説」の下、惑星は円運動していると考えられていましたが、まずコペルニクスが「地動説」を展開し、さらにケプラーは、ティコ・ブラーエの観測から、惑星の軌道は楕円であると唱えました。これが「ケプラーの法則」です。ただ、彼の著作である『宇宙の調和Harmonice Mundi』(1619)を見ますと、音楽と宇宙をやはり関連図けて捉えていることがわかります。

ケプラーは、惑星は動いている時に音は出ないものの、惑星は固有の歌を持っていると考えていました。それが下の図です。上の段に左から、土星、木製、水星、地球が並び、下の段には金星、火星とあり、最後は右端が切れているのですが、にラテン語で「ここには月が置かれる」とあります。彼は、宇宙では音はしないけれども、星は調和の原理に基づく声をそれぞれ持っていると考えていました。ケプラーにとって調和がとれている音楽とは、『宇宙の調和』に引用されていることからすると、同時代に生きたオルランドゥス・ラッススの音楽でした。では、ラッススの作品を聴いてみましょう(録音は割愛します)。

2.平均律の採用
実際の音楽は、ルネサンス以降、つまり数比による調和を重視した様式から、感覚を重視した音楽へと変化していきます。具体的には、協和音程が従来の8度・5度・4度だけでなく、3度や6度も加わり、不協和である音程も許容され、しかもオルガヌムのような4度や5度の連続は禁止されていきます。そうした音楽の多様化の中で、ピュタゴラスの調律法は音楽実践にそぐわないものとなりました。そこで様々な調律号が採用されたのですが、最終的には「平均律」と呼ばれる調律法が広く普及していきます。

「平均律」は1オクターブ12の音を、すべて均等に分ける調律法で、数学的には無理数を扱いますから、簡単な整数を良しとしたピュタゴラスなら憤慨することでしょう。また、完全に唸りの出ない和音はオクターブだけで、あとはどのような和音でも、唸りが出てしまいますから、今日でもそれを嫌う人もいるようです。ただ、どのような調の音楽であっても、どのような和音であっても、そこそこきれいに響きますから、広がっていったのです。

一言申し上げておきますと、ピアノは一般に平均律で調律されていると言われていますが、実は高い音はより高く、低い音はより低く設定されているそうです。また、あのバッハの《平均律クラヴィア曲集Das Wohltemperirte Clavier》は、実際には「平均律」を想定して書かれたわけではありません。そもそもバッハの時代には「平均律」は実用化されていませんでした。原題にある「wohltemperierte」は、「良く調整された」という意味なのですが、バッハなりに納得できる調律法を使えば、24の調すべてで美しい音楽が実現できるということだったようです。


V.さいごに
以上、宇宙と音楽の関係について駆け足で振り返ってまいりました。音楽によって人間も宇宙も調和するという思想は、古代の中国にも「礼楽」の思想としてありますし、日本ではまさしく「たましずめ」につながっているものと思われます。それは逆に言えば、「たましずめ」という日本の文化は、人類にとって普遍的であることも指し示しているのではないかと思われます。そのことを申し上げて今回の発表を閉じたいと思いますが、最後に、バッハの《平均律》を聴いて終わりとしたいと思います(録音は割愛します)。




■たましずめ音楽論(2017.12.2・再掲載)

2015年6月6日、新宿の花園神社で催された講演原稿を掲載いたします。「死の音楽」考と併せてお読みいただければ幸いです。なお、資料は諸般の事情より掲載しておりません。どうぞご了承ください。

I.ごあいさつ
今日は「たましずめ音楽論」と題しまして、これまで2回ほど発表させていただいた内容の「まとめ」とさせていただきます。テーマの「たましずめ」や「魂」につきましては、お集まりいただいた皆様こそ専門家でいらっしゃいまして、何ともおこがましい限りなのですが、宗教音楽学を学ぶ者としての視点から最近考えてきたことをまとめて参ります。


II.子どもが受け継ぐ「たましずめ」の文化
発表の前に資料をお配りしなかったのは、ちょっとクイズを出したかったのです。では、このキャラクターをご覧ください。名前がパッと出てくる方は、普段から小さな子供に接している方でして、実際わたしも、船橋のNPOで小学生の学習指導に関わるまでは全く存じませんでした。この猫とおぼしきキャラクターの名前は「ジバニャン」と言いまして、地縛霊となった猫という意味です。このジバニャンが登場する『妖怪ウォッチ』というアニメーションでは、事故などで不慮の死を遂げた人間や動物が成仏できずにさまざまな問題を引き起こしている、という世界観が設定されているのですが、そうした問題を主人公の小学生ケータ君が、腕時計タイプの「妖怪ウォッチ」というツールを使って問題を起こす妖怪を発見し、妖怪と戦ったり話し合ったりして、無念を解消することで仲間としていきます。要するに「たましずめ」が行われているわけです。

他のアニメを見ていきますと、わたしが子供の頃には、ロボットが心を持つことができるか、というテーマが底流にある作品がありました。ところが近年では『妖怪ウォッチ』のみならず、「魂」を扱ったものが増えているような気がします。新作映画が公開された『ドラゴンボール』、大流行しました『新世紀エヴァンゲリオン』、『鋼の錬金術師』、ごく最近の『宇宙戦艦ヤマト2199』など、いくつでも見つかります。近代合理主義の世の中であるのに、あるいはそうした世の中なればこそ、「魂」の文化が残り続け、アニメを通して再生産されているのは、興味深い現象です。

「たましずめ」については、この会で最初に発表させていただいた「死の音楽」の中で、カトリックの「レクイエム」、つまり、「死者のためのミサ曲」とは、祈る者が死者の魂に直接働きかけているわけではないため、「鎮魂曲」と呼ぶのは語弊がある旨を指摘いたしました。けれども、その後、いろいろと調べて考えていきまして、本当は「たましずめ」こそ人類の普遍的な文化なのではないかと考えるようになり、さらに、そこから音楽文化を見直すとどうなるだろうか、と思い立ちました。そこから生まれたのが「たましずめ音楽論」です。本論に入る前に、今回お話しする「たましずめ音楽論」のあらましを示しておきたいと思います。

まず、「魂」は、ひとをひとたらしめている仕組みであり、人類普遍の文化の核であって、「たましずめ」と「たまふり」の原理によって、「魂」は形作られていくのですが、「音楽」は、「たましずめ」・「たまふり」の方法論として、大きな役割を担う、という見方であります。この見方の下からさらに、「音楽」は、「魂」において、肉体と精神を結び、現世と来世を結び、そして個人と社会を結ぶという働きを持つ、という点を考慮に入れつつ、お話を進めていきたいと存じます。


III.「魂」と「たましずめ」
日本語では、「霊魂」という言葉もよく使われます。「霊魂」とは辞書的な意味では、ひとの肉体と精神の働きを司る人格的な実在であり、五感を超えた永遠不滅の存在ということになるかと思います。そもそも「霊」を訓読みした「たま」とは、古神道においては、先ほど触れました生命エネルギーである「マナ」が起源とされ、「魂」の方だと、そこに中国の道教の「魂魄」の考え方も加わっていると考えられています。ここで言う「魂」(こん)」とは精神を司る気であり、「魄」とは肉体を司る気のことを言います。ちなみに、人間が亡くなって「魂」だけが天に帰りますと、「魄」と肉体だけが残り、映画にもなった「キョンシー」というゾンビのような怪物になり果てるそうです。日本語の「霊魂」とは、この「霊(たま)」と「魂魄」を包括する存在、つまり生命の源であり、精神と肉体の核でもあると言えるでしょう。ちなみに、日本や中国以外の文化においても、「たましい」は少なくとも二つの言葉で言い表されることが多いように思います。たとえば、英語の「スピリット」と「ソウル」、ギリシャ語の「プネウマ」と「プシュケー」、ラテン語の「スピリトゥス」と「アニムス」、ドイツ語の「ガイスト」と「ゼーレ」、そしてヘブライ語の「ルーアハ」と「ネフェシュ」などです。そうした概念の分類と整理に深入りすることは控えたいと思います。

さて、そもそも「マナ」に由来する生命エネルギーであった「魂」は、容易に肉体から遊離してしまうと考えられていました。では、遊離してしまわないようにどうするのか。その方法こそ、「たましずめ」という作法です。元来は、太古の昔、大切な家族や仲間が精神的に乱れて体調までおかしくなってしまった時、あるいは病気や怪我などで死の床にある時、「マナ」を沈静化させる呪術として行われていたのでしょうが、平安時代には「鎮魂祭」という形で、天皇に対して執り行われるようになっていました。そして、「魂」を鎮めるだけではなく活性化する作法もあり、これは「たまふり」として広義の「たましずめ」の一部とされました。

さらに、ひとは死んでも「魂」はこの世に残り続けるとされるようになったことで、「たましずめ」には新たな意味が加わります。この世に恨みを残して亡くなった人物が怨霊となって祟りをもたらさないように、祈祷や歌舞音曲という形で公開されるようになるのです。この類の「たましずめ」の中で、公に行われた最も古い記録は、平安時代に編纂されました歴史書である『日本三大実録』によりますと、貞観5年(863年)に京都で催された御霊会(ごりょうえ)です。この貞観の御霊会は、この頃蔓延していた疫病の原因を、崇道天皇や橘逸勢(たちばなのはやなり)といった、政治的事件に関わって不遇の死を遂げた人物の祟りであるとし、彼らの魂を鎮めるためのものでした。御霊会は地方へも広まるとともに、別の祟りと思しき事件が起こるたびに行われることになります。そして、稲を枯らす害虫を、『平家物語』に登場する斎藤実盛の祟りと捉えて、これを鎮めようとする「虫送り」へと繋がっていきます。「虫送り」は今日でも、全国の農村で行われております。ちなみに富士さんの貞観大噴火は864年に、貞観地震は869年に起き、『日本三大実録』にも記載されております。

こうした「たましずめ」は、戦争における日本人の死者に対しても行われてきました。たとえば、広島の原爆で亡くなった方については、毎年8月6日に催される記念式典で「過ち」を繰り返さない旨が語られ、歌が歌われます。わたしも小学生の時にはこの式典で歌ってまして、この時の体験が「たましずめ」に関心を抱く原点になったのかもしれません。また、学徒出陣の際の遺書を集めた『きけ わだつみのこえ』によりますと、自分が死んだらフォーレ(Gabriel Fauré,1845-24)の≪レクイエム≫を流してくれるよう書き遺した方がいらっしゃいます。元来、カトリックの「レクイエム」とは、死者の魂に安息を与えてくれるよう神にお願いする祈りなのですが、この事例では、自分の魂を鎮めるためのものと捉えられていたのかもしれません。

もう一つ、怪獣映画『ゴジラ』(1954年)の音楽を例に挙げたいと思います。音楽の作曲者・伊福部昭(1914-2006)さんは、ラストシーンに付ける音楽を「鎮魂曲」として作曲しました。ゴジラは、水爆実験によって生まれた怪獣なのですが、日本が敗戦から立ち上がったものの、繁栄のために戦争の悲惨さを忘れてしまっている状況に対して、太平洋での戦闘で南の海に散った兵士たちの英霊が怒り、荒ぶる怪獣と化して暴れるという設定となっています。結局、ゴジラは新しい時代の科学技術により倒されるのですが、その時に流される音楽は勝利の凱歌ではなく鎮魂曲、つまり「たましずめ」の歌であることは感慨深い話です。この曲を少しだけですが聴いてみましょう。伊福部さんは、ドレミの「ミ」の音を基調とする音階を使って曲を構成しておりまして、これは古代ギリシャでは「フリギア旋法」、日本では「都節」と呼んでいます。音楽によって、どのように「たましずめ」を行うかには、地域や時代により、また作曲者個人により、さまざまな原理や方法があるかと思いますが、この曲の場合、古代から伝わる音階(旋法)が方法論となっています。


IV.「たましずめ」と心身の癒し
ここで、「たましずめ」の原義、つまり、生きている人間の「魂」のコントロールについて考えていきます。もちろん、鎮魂曲だとかレクイエムであっても、生きる人間が作り、奏で、そして聴くわけですから、それは生ける魂への「たましずめ」となり得ます。たとえば、前回の発表で採り上げましたブラームス((Johannes Brahms,1833-97)の≪ドイツ・レクイエム≫では、「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」(『新共同訳聖書』:マタイによる福音書5章4節)というイエスの言葉をテーマとして、生きている人間に対して「たましずめ」を行っていると見ることができるでしょう。聖書と言えば、青年ダビデが竪琴で、サウル王の心の病を癒した話も有名です。ただ、はじめから、生きている人間の心身の不調を整えるために実践されている方法があります。それが音楽療法です。

音楽療法とは「音楽のもつ生理的、心理的、社会的働きを用いて、心身の障害の軽減回復、機能の維持改善、生活の質の向上、問題となる行動の変容などに向けて、音楽を意図的、計画的に使用すること」(日本音楽療法学会 ガイドライン11)と定義されておりまして、さまざまな病気や障害を持つ方に対して、医療や福祉の現場で実践されています。

わたしは大学時代、心理学の講義で、自分が落ち込んだ時を想定して、聴くと回復につながりそうな10曲のリストを作った記憶がありますが、その中から順を追ってサワリだけを聴いていただきたいと思います。順に、(1)バーバー:≪弦楽のためのアダージョ≫、(2)バッハ:「G線上のアリア」、(3)マーラー:≪交響曲第5番≫より第3楽章、(4)パッヘルベル:≪カノン≫、(5)ロッシーニ:≪ウィリアム・テル≫序曲、となります。どうでしょうか。5曲だけですが、悲しさや苦しさを感じられそうな曲調から、落ち着いた感じとなり、明るい感じになり、最後にははじけるような雰囲気になったのではないでしょうか。鬱状態の患者さんに対して、「頑張れ!」と励ますのは禁句だとよく言いますが、音楽療法の場合も同じで、まずは落ち込んだ気分に寄り添った曲を聴き、それから次第に明るいものへと変えていくという方法論となっているわけです。

音楽療法のほんの一例についてお話しいたしましたが、自分で自分に合った音楽を探すわけですから、他人が同じ曲を聴いたとして、同じ効果が得られるわけではありません。しかし、逆に言えば、音楽療法とは何も特別な施術ではなく、もしかすると我々が日ごろから行っているカラオケだとか音楽鑑賞だとかもそれに入るのかと思います。音楽のジャンルも、クラシックだろうがロックだろうが演歌だろうがいいわけです。ただし、ロックはどちらかと言うと、精神を活性化させるような曲調が多く、その意味では「たまふり」に偏りがちでしょうし、演歌は逆に「たましずめ」の方が多いように思えます。いずれにしても、音楽療法は、経験によるところが大きく、理論の構築についてはまだまだ発展の余地がある分野かと思います。

余談ですが、長調は一般に明るく楽しく、短調は逆に暗く悲しいという感じ方があります。なぜそう感じるは科学によって解明されていませんが、17世紀フランスの哲学者デカルト(René Descartes,1596-1650)によりますと、長調の和音を聴くと「魂」が伸び、短調の和音だと縮むそうです。デカルトは、空間的広がりを持つ実体(res extensa)、つまり物質と、思考することができる実体(res cogitance)、つまり心という二つの実体が互いに独立して存在しうるものと考えた哲学者です。彼の思想と音楽との関わりも興味深いものがありますが、今回は残念ながら割愛させていただきます。


V.あの世とこの世をつなぐ「魂」
あらゆる宗教は、この世に対してあの世がどのようになっているかも教えています。たとえば仏教では、死者の魂は成仏して極楽浄土に行くとか、輪廻転生によって何度でもこの世に戻って来ると説明することがありますし、キリスト教ですと、ユダヤ教やイスラム教と同様に、死後の魂はいわゆる「最後の審判」で裁かれ、赦された者は神の国での復活に与かるとされています。細かく見ていくと、ユダヤ教では審判と復活までの間は冥府(シェオル)で保存されているだけなのが、カトリックだと「煉獄」という場所で未決囚のように生き続け、その罪を生き残った家族たちが祈りによって軽くできるとされています。これまで採り上げてきました「レクイエム」はまさにそのための祈りであり音楽であって、神様だけでなく、煉獄で苦しんでいる自分の大切な家族や先祖への眼差しがあるわけです。一方、神道、つまり日本人固有の、あるいは基底となっている霊魂観ですと、ひとは死後、魂となって近くの小高い場所から家族を見守っているとされているようです。死せる者から生ける者への眼差しがあるわけですが、人間は歳を重ねていきますと、自分もまた家族や故郷を見守る側に立つのだろうと想像するようになるかと思われます。わたしも肉親の死や自分の交通事故などを経験して、そんな気持ちが分かるようになってきた気がしています。たとえば「うさぎ追いしかの山」で始まる≪故郷(ふるさと)≫(1914年。高野辰之作詞・岡野貞一作曲)を聴くと、何だか寂しくもあり、温かくもあるという不思議な気持ちになります。

音楽の事例をもう一つ挙げておきたいと思います。「千の風になって」(新井満の訳詞・作曲)が大流行したことを覚えていらっしゃる方が多いかと思います。この歌は、1932年にメアリー・フライ(Mary Elizabeth Frye, 1905-2004)という女性が、ユダヤ人である友人の母親がドイツで亡くなったことに寄せて贈った詩を元にしています。わたしが直訳した訳文を読んでみますと、「わたしのお墓でたたずんで泣かないでください。わたしはそこにはいませんし、眠ってもいません。わたしは吹きわたる千の風なのです」という感じです。魂が風になって自分を見守ってくれていると解釈するなら、日本人の霊魂観に合致しますし、魂=息と捉える欧米の伝統から見ると、たとえ意識のない風だとしても、亡くなった家族の存在を感じることができるということになります。

このように見ていくと、死者の魂への眼差し、死者の魂からの眼差しの少なくとも一方を、人間は持ち合わせていて、詩や祈りや物語といった言葉、あるいは芸術音楽、唱歌や童謡、演歌や歌謡曲といった音楽により共有しているのではないかと考えたくなります。そして、死者への眼差しは、自分を死者だと想定すれば得られることを考慮に入れれば、人類にとって普遍的なものであり、死者=自分の生命や精神や肉体の根本にある「魂」が悲しみや苦しみにある時、それを慰め鎮める作法たる「たましずめ」もまた、普遍的な作法であり文化でありうると、わたしは考えています。

ここでもう一点、わたしはクラシック音楽を研究してまいりましたので、特に19世紀のロマン主義の音楽を支えた思想について触れておきたいと思います。18世紀の前半は、この世界は論理的に説明できるものであるとする「啓蒙主義」がフランスから西欧に広まっていました。ところが、1755年、モーツァルト(Wofgang Amadeus Mozart,1756-91)が生まれる前の年にポルトガルで大地震があり、首都リスボンが壊滅したことに端を発して、理屈では世界のことは分からないとする思想が徐々に広まっていきます。文学では、神話や古代・中世の世界、エキゾチックなもの、夢の世界など神秘的なものが題材とされてロマン主義の文学が生まれます。一方、音楽では、歌詞を含む作品はともかく、歌詞のない音楽だと何をもって神秘的とするのか直ちにはわかりません。そこで思想家たちは、歌詞がないために意味の分からない音楽こそ、かえって崇高で神聖な何かを予感させる芸術として絶対的なものであると捉えます。これがドイツのロマン主義音楽における「絶対音楽」の理念です。そして、ルネサンスだろうとバロックであろうと、具体的な意味内容を示すことのないフーガなどの対位法も理想的な音楽様式とされ、その道の大家であるパレストリーナ(Giovanni Pierluigi da Palestrina,1525?-94)やバッハが祭り上げられることになります。

また、従来は教会こそが祈りの場であり、音楽によってあの世とつながる聖なる場所であったのが、コンサート会場があたかも宗教的祭儀の場所のようにしつらえられ、個人の内面こそが、音楽によって崇高で神聖な何かを予感するための場となっていきます。今や誰もが心を清らかにすれば、神の声を聞くことができるのです。もちろん、その中でも天才は、神の声を聞き、作品として世に送り出す能力を持っているわけです。ロマン派の時代の天才と言えば、まずベートーヴェン(Ludwig van Beethoven,1770-1827)を思い浮かる方が多いのではないでしょうか。彼の≪交響曲第6番≫「田園」の第5楽章について少し触れておきたいと思います。

「田園」は、1808年に完成された5楽章構成の交響曲で、それぞれの楽章には標題が付けられていて、いわゆる「絶対音楽」とは言えません。第5楽章は「牧人の歌 嵐の後の幸福で感謝に満ちた気分」と題され、賛歌を思わせるメロディが繰り返される構成をとっています。ここで面白いのは、メロディーが繰り返されていく中で、カラオケのように伴奏だけが残り、楽譜にはないはずのメロディが聞こえてくる個所があることです。要は、最初から繰り返されてきたメロディを聴き手は自然に覚えて、「伴奏」に合わせて頭の中で歌っているわけです。これは、わたしの勝手な解釈ですが、田園の自然全体が調和し、すべてが神に感謝する光景の中に、聴き手自身も組み込まれて「感謝」の賛歌を歌っているということなのではないでしょうか。この解釈を証明することは残念ながらできませんが、こうした勝手な聴き方ができるというのも、わたしたちが内面で自由に音楽を解釈し、自分なりの神や美といった神聖で崇高な世界を見つけられるということの証なのかもしれません。


VI.個人と社会を繋ぐ音楽
個人が内面で自由に音楽を解釈し、崇高で神聖な存在と出会うとする考えは、実は、教会音楽の目的は聴き手の敬虔な感情を呼び起こすことにある、とする敬虔主義に由来しています。この敬虔主義の下、先述しましたように、ロマン主義が始まります。そして、この思潮はやがて、ナショナリズムと結びついていきます。簡単に言えば、近代化以前の共同体では、信仰とは教義もさることながら、心情でさえ共同体のメンバーの間で共有されていたのが、「魂」、つまり個人の内面の問題とされ始めて自由になったかと思いきや、民族や国家といった社会により半ば強制的に、半ば自発的に至高の民族国家への忠誠が涵養されることになるのです。
1781年以降、モーツァルトは移り住んだヴィーンで、フリーメーソンの仲間であるズヴィーテン男爵(Gottfried van Swieten,1734-1803)から、バッハをはじめとするドイツ・バロックの巨匠たちの音楽を知ることとなります。そしてバッハたちの音楽を素材として自作に活用することとなるのですが、最晩年の1791年には、≪魔笛≫と≪レクイエム≫の中で、ルター派の賛美歌(コラール)を引用しました。このことが何を意味しているのか解明されていませんが、前者がドイツ語を話す民衆のための音楽劇であり、後者にはコラール2曲の他、ドイツ語地域の巨匠たちの作品も引用されていることを考え合わせると、モーツァルトが崇高な世界を音楽で現出させようと、ドイツ人にとって民謡のように馴染んでいるコラールを、さらにドイツ人の巨匠たちの音楽を引用することで試みたと解釈できないでっしょうか。すると、ここにドイツ民族主義の萌芽を見てとることができなくはないかもしれません。

実際、18世紀後半に活動したドイツの哲学者ヘルダー(Johann Gottfried von Herder,1744-1803)は、音楽によってひとはひとになるとし、さらには民謡が民族精神の基盤であると主張しました。彼は偏狭なナショナリストではなかったようですが、政治的考察においては、民族=民衆たるフォルクが、自然な国家と統治の基礎にあると考えました。この考えを敷衍すれば、民族および国家の統一は、民謡に根差した音楽によってなされうる、という思想へと導かれるのではないかと考えられます。その後のヨーロッパおよび日本では、実際、音楽教育はそのような路線でなされ、民族国家の形成とナショナリズムの台頭へと繋がったように思います。

一方、日本では明治43年(1910年)、文部省が『尋常小学読本唱歌』を発行し、全曲を日本人作曲による「文部省唱歌」による国民教育が1944年まで続きます。そもそも唱歌教育の目的は「唱歌ハ平易ナル歌曲ヲ唱フコトヲ得シメ兼テ美感ヲ養ヒ徳性ノ涵養ニ資スルヲ以テ要旨トス」(1901年)というものでしたが、日本人による曲でさらに目的に適う音楽教育となったことでしょう。事実、≪故郷(ふるさと)≫が描く日本の風景や情緒が子供の頃に心に染み込むことで、愛国心(ナショナリズム)はともかく、愛郷心(パトリオティズム)は十分に涵養されたのではないかと思われます。

しかしながら今日の日本では、音楽を取り巻く状況が変わってきました。一つは、作詞家・阿久悠さん(1937-2007)の言葉を借りれば、「歌が空を飛ばなくなった」(『書き下ろし歌謡曲』。岩波新書・1997年)という現象です。これは、特に若者を中心に、ウォークマンなどのヘッドフォンで音楽を聴くようになったことを指していたのかと思います。近年ではさらに、インターネットで音楽をダウンロードする人も増え、テレビの音楽番組は廃れていますし、CDの売り上げも下がる一方です。要するに、かつては流行歌としてテレビやラジオで流されることで民衆が共有していた音楽が、個別的かつ内面的な側へ偏ってしまったということです。こうなると、音楽を介在した個人と社会との関係は、ひどく弱いもの、もしくは「社会」と言いつつ、結局は消費活動の一環でしかないということになってしまいます。

かつて哲学者ベンヤミン(Walter Bendix Schönflies Benjamin,1892-1940)は、『複製技術時代の芸術』において、現代において機械的にコピーされた芸術からは、魔術や芸術の根本にある「アウラ」というエネルギーが感じられなくなると指摘しました。しかしながら、わたしから見れば、そもそも芸術が宗教から切り離された時に、この問題は生まれたのではないかと思われます。たとえば、ミサ曲という組曲のような曲種がありまして、それはイエスが人間の罪を背負うために十字架にかけられる前夜の、弟子たちとの最後の晩餐を記念して催されるカトリックのミサの中で歌われる音楽なのですが、元来は各楽章の間に、聖書の朗読やお説教や、パンとブドウ酒を用いた儀式があります。ところが、ひとまとめにされて芸術音楽になった瞬間に、そうした本来の文脈は消えてしまうのです。

宗教学者のエリアーデ(Mircea Eliade, 1907-86)は、おそらくミサに着眼して、共同体が疲弊すると、英雄に穢れを背負わせて生贄とし、共同体の活性化を図るのがあらゆる宗教の祭りの起こりであると考えました。ミサ曲が芸術音楽になると、その原義が分からなくなるということです。すべての音楽に宗教的な性質が本来はあったと捉えるならば、音楽における「アウラ」は、作品が録音されて複製される前に、すでに消失する運命にあったのです。

だからこそ、たとえば音楽が芸術となった19世紀後半、演奏会場は暗くされ、指揮者は司祭のように振る舞うことで、元の宗教的アウラを維持しようと努めたのではないでしょうか。20世紀になって、LPレコードを聴くようになっても、聴く前にアンプを温め、レコードをきれいに拭いたりして儀式めいたことを行っていたことも思い出されます。また、CDや演奏会の宣伝文句には、しばしば「魂」という言葉が使われています。たとえば佐村河内学氏によるゴーストライター事件では、NHKが彼の天才ぶりを報じる番組に「魂の旋律」というタイトルを付けたことが思い出されます。

さらに現在では、「スピリチュアリズム」という形で、心身の癒しが手に入る時代になっていますが、これもまた、お金さえ払えば何の努力もなしに問題が解決するかのような消費財のように見えることがあります。こうした時代であればこそ、わたしたちは「魂」だとか「癒し」というキャッチフレーズに弱いのかもしれません。

そうした消費社会に絡め取られないためにはどうすればいいのか。思想家・藤田省三さん(1927-03)は、「ピカピカの所与」という言葉を使って、今日の製品は合理的精神で作られ、合理的な精神が人間本理の想像力になりかわって製品の「たましい」として封入され、ただ「ピカピカ」なだけで「再生」と「復活」といった世界との関わりを持たないと喝破しました(『精神史的考察』。平凡社ライブラリー。2003年。初出1981年)。わたしは、今日の社会で失われてしまった文脈やプロセスを取り戻すことに解決の糸口があるように思います。たとえば音楽で言えば、音楽の作り方を学ぶということです。あるいは、本来の文脈を知り、そこに置きなおせないか考えることです。それは取りも直さず、自分の「魂」と対話を重ね、成り立ちを掘り下げる営為となることでしょう。ここで、ベートーヴェンの言葉を引用させてください。「心より出て、また心に至りますようにVom Herzen―Möge es wieder zu Herzen gehen」(≪ミサ・ソレムニス≫より「キリエ」冒頭への書き込み)。

以上、「たましずめ音楽論」と題しまして、駆け足でお話しして参りました。俯瞰的かつ総論的な内容となってしまいまして、深い議論ができなかったことをお詫びいたしますが、このテーマにつきましては、わたし自身、さらに突き詰めて仕上げていきたいと考えております。

最後に、音楽を一曲、お聴きいただいて、発表を終わりたいと思います。交響曲の「新世界より」で知られるドヴォルザーク(Antonín Leopold Dvořák,1841-1904)に≪スターバト・マーテル(悲しみの聖母)≫という作品があります。テキストは元来、ミサで唱えられるものですが、演奏会用に作曲されたものです。ドヴォルザークは、三人の子供を相次いで亡くしまして、奥さんの母親としての悲しみに対して、悲しみを表すであろう旋律を挙げ、それを音楽療法にように徐々に明るい曲調に変化させていき、最後に賛歌の中に悲しみの旋律を置きなおすという方法論を取っています。なにしろ90分の大曲なので、第1曲の冒頭と、終曲の冒頭だけですが、彼がおそらくは自分自身の魂を癒していったプロセスとして、その一端を聴いてみてください。もしご興味のある方は、歌詞もお読みになりながら是非、全曲にチャレンジしてみてください。

CD(Amazon)
ドヴォルザーク:スターバト・マーテル作品58 (2CD) / DVORAK/Stabat Mater

皆様、貴重なお時間を割いていただき、ありがとうございました。




■「死の音楽」考(2017.12.2・再掲載)

2012年5月19日、新宿の花園神社の研究会にて、「死の音楽」について発表する機会に恵まれました。主宰者、出席者の皆様に感謝いたします。このページでは、発表用の原稿を掲載します。わたしの名刺代わりです。

1.はじめに:音楽には「宗教的なちから」がある
本日は、私に発表の機会を与えてくださいまして、まことにありがとうございます。本日のテーマであります「死」と「音楽」の関わりにつきまして、日頃より考えて参りましたことをお話ししたいと存じます。

今日のお話の進め方ですが、はじめに私の専門であります「宗教音楽学」とはどのような学問なのか、簡単に踏まえておきたいと思います。続きまして、今日のテーマであります「死の音楽」につきまして、日本人と西洋人の死生観の違いに触れながら、ご説明して参ります。そして、「死の音楽」の一例として「レクイエム」、カトリックでいうところの「死者のためのミサ曲」を採り上げまして、映画「アマデウス」でも有名になりましたモーツァルトのレクイエムを含むいくつかの作品の触りを聴いていただきながら、さらに考えて参りたいと予定しております。そして最後に、皆様のご意見やご感想もたまわりながら、音楽が、人の死に際してどのような意味を持ちうるのか、まとめていきたいと思っております。

なにぶん、これまで、音楽学者や演奏家、クリスチャンの集まりでの発表が多かったため、もしかすると専門用語や分かりにくい概念をそのまま申し上げることがあるかもしれませんので、発表を止めてご質問やご意見をいただいてもかまいません。ということで、本日はどうぞよろしくお願い申し上げます。


発表テーマと目次:「死の音楽」考 ~宗教音楽学の立場から~
音楽がひとの「死」をどのように描いてきたか、演出してきたかについて、宗教音楽学の立ち場から考える。

1.はじめに:音楽には「宗教的なちから」がある
2.「宗教音楽学」の冒険:音楽の聴こえ方・感じ方を変える学問
3.ケーススタディ:《シャボン玉》と《主われを愛す》から分かる死生観の違い
4.「レクイエム」について:死者の執り成しを祈る音楽
5.モーツァルトの《レクイエム》:聴いてみましょう
6.映画《アマデウス》について:音楽史的には間違いだらけ
7.《レクイエム》の原曲:ツギハギだらけの絶筆
8.巨匠たちへのオマージュ
9.さいごに:まとめと今後の課題


まず、私ごとでございますが、実は、先月の末に母を亡くしまして、お通夜と葬儀のために実家の広島に行ってまいりました。母は何しろ音楽が大好きで、高校時代にはプッチーニのアリア、結婚後は教会や合唱団でさまざまな作品を歌ったり、晩年はカラオケでテレビにも出演したりと、素人ではありますが、歌に人生を捧げた感がございまして、おそらくはその遺伝子を私も受け継いでいるのかと思います。

その母が亡くなったのですが、長らく顔を見せていなかったこともあってか、死んだというリアリティがまったくないまま里帰りしまして、私は母の死に顔を見ても「いい子して寝てるようだなあ」とあっけらかんとして、我ながら「まるで人でなしだなあ」と思っていました。ところが、お葬式の最後の最後、故人が好きだった音楽をテープで流すところで異変が起きました。

流れてきた音楽は、美空ひばりの《「川の流れのように》を母が歌った録音でした。前奏が終わって、母の声が聞こえてきたその瞬間、私の心の中にこみあげてくるものを感じました。皆様もご存知かもしれませんが、この曲の歌詞は、人生を振り返るという内容で、それも相まって、母との別れが現実のものであることが、私にははじめて実感できた次第です。けれども、この音楽による別れによって、内にこもっていた私の悲しみは発散され、和らいでいったのだとも思います。

話の枕が少々しめっぽくなりましたが、音楽は、このように、大切な人の死に際して、残された者に、別れを悟らせたり、悲しみを慰めたりするといった力がたしかにございます。この力は、「宗教的なちから」と言っても差し支えないと、私は考えております。


2.「宗教音楽学」の冒険:音楽の聴こえ方・感じ方を変える学問
さて、こうした、音楽の宗教的な力を研究していく学問が、私の専門である宗教音楽学であります。とは申しましても、宗教音楽学とは一般に耳慣れない専門領域であるかと思いますので、どのような学問なのか、何をどのように研究するのか、どんな人間がこの分野を志すのか、私自身のケースでご説明さしあげたいと存じます。

私が学んだのは広島の小さな音楽大学で、エリザベト音楽大学と申します。これは、カトリックのイエズス会が設立した学校で、私が学んでいた時には、今はもうなくなっておりますが、宗教音楽学科がありました。この宗教音楽学科では、西欧の芸術音楽の礎となった中世のグレゴリオ聖歌、もはや宗派、いえ宗教の枠を超えたと言っても過言ではないJ.S.バッハのオルガン作品や教会カンタータ、芸術音楽以外でも今日のミサで歌われる日本語の讃美歌などなど、宗教音楽・教会音楽の多様なレパートリーについて、実践と理論の両面から学ぶことができました。私は特に18世紀、つまりバッハやヘンデル、ハイドン、モーツァルトが生きた時代のミサ曲とレクイエムの音楽様式の歴史を研究し、大学院の修士課程に進みました。

宗教音楽学とは、このように、教会とその典礼もしくは礼拝のあるところで研究されることの多い学問ではあるのですが、クリスチャンが自分の宗教や宗派に関わる音楽を自画自賛して終わる御用学問ではありません。その本質は、音楽の様式の変化や伝統を分析し、作曲家と作曲家の間にどのような影響があったか、その時代や地域の社会や文化によりどのように影響されたかを実証的に考察していく「音楽学」に根ざしております。

私は修士課程に進んだのですが、そのときの恩師の一人に近藤譲という作曲家がおりまして、学芸大や御茶ノ水女子大で教えておられたかと思いますが、この近藤先生が、ある音楽学者と対談した文章の中で、「音楽学的研究が音楽の聴き方・聴こえ方を変えることができるのか」と問いかけておられました。この問いが、その後、社会に出てからも音楽に興味を持ち続けていた私にとって、大きな「宿題」となりました。つまり、できれば、音楽を聴く人にとって、音楽観が変わるようなインパクトのある研究が何かできないか、という望みを抱くこととなったわけです。そこで、私の研究ではございませんが、簡単な例を挙げてみようと思います。


3.ケーススタディ:《シャボン玉》と《主われを愛す》から分かる死生観の違い
日本人であれば誰でも知っている童謡に「シャボン玉」があります(♪シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ♪という曲ですね)。これは、野口雨情の詩に中山晋平が曲をつけたもので、1922年に発表されております。皆様ご存知かもしれませんが、この曲の詩は、野口雨情の長女が生まれてすぐに死んでしまったことを、飛んではすぐに壊れて消えてしまうシャボン玉に投影して書かれているという説があります。このような説を耳にすると、歌詞も音楽も、なんだか人の生命の空しさや無常を表わしているように感じられてまいります。ただし、この説については、決定的な証拠はございません。

しかしながら、キリスト教の讃美歌の中に、実はこの「シャボン玉」とよく似た曲があることが知られております。その讃美歌は、ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、「主われを愛す」という曲で、1862年にアメリカで作曲されております。ちょっと歌ってみますと、「♪主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも恐れはあらじ。わが主イェス、わが主イェス、わが主イェス、われを愛す♪」。「シャボン玉」と曲調と構成が似ていると思われませんか?

歌詞に目を向けてみましょう。原詩は英語で、今歌ってみました日本語の歌詞とニュアンスには大きな違いはありませんが、原文の訳を読みます。「イエスはわたしを愛している! 私は知っている。聖書がそう語っているから。小さい者たちもイエスに属していて、彼らは弱いけれどイエスは強いのだ」。この詩は、実は、ある小説の中で、息を引き取ろうとしている小さな男の子に主人公が読んで聞かせているものです。このことを踏まえますと、この讃美歌は「イエス万歳!」ということではなく、死を前にした者に安心を与えるという歌なのだということが分かるかと思います。

このように、日本と西洋では、同じような音楽であっても、死生観の違いがはっきりとしているように思えます。私は、これら解釈を知ってから、「シャボン玉」にせよ「主われを愛す」にせよ、他愛ない童謡、明るい讃美歌という表面の下に、人の死が通奏低音として流れていると感じられるようになりました。皆様はいかがでしょうか。

参考サイト wikipedia:シャボン玉(唱歌) wikipedia:主われを愛す


4.「レクイエム」について:死者の執り成しを祈る音楽
さて、モーツァルトの「レクイエム」について考えていく前に、そもそも「レクイエム」とはどんな音楽なのか、どんな作品があるのか、ご紹介さしあげてまいります。まず「レクイエム」とは正式名称ではございませんで、カトリックでは「死者のためのミサ曲」と呼ばれます。あまり説明ばかりだと大変なことになりますが、「ミサ」とは、イエスが十字架にかけられる前夜の、いわゆる「最後の晩餐」を記念して執り行われます儀式だとご理解ください。そのミサで歌われる音楽で、ひとまとめにされたものが「ミサ曲」になります。

「レクイエム」は、ミサの中でも、とくに亡くなった方のためのミサの音楽で、歌いだしの「Requiem aeternam dona eis, Domine」の語句にちなんだ呼び名であります。「Requiem」とはラテン語で、「安息」(平安、安らぎ)という意味で、死者の安息を神様にお願いするというのが趣旨です。もう少し詳しく申しますと、カトリックでは「煉獄」という死後の世界がありまして、これは地獄ではなく天国に行くことになってはいても、小さな罪があって償いが終わっていない死者が赴く場所とされているのですが、こうした死者のために生きている者たちが、神様に直接お祈りするだけでは足りなくて、聖母マリアや聖人たちに対して執り成してくれるように祈るわけです。「レクイエム」にはそうした目的もございます。ちなみに、この「煉獄」の考え方はカトリック独特のものですから、プロテスタントやギリシャやロシアの正教会には、「レクイエム」はございません。

このような形で、カトリックは死後の世界について知識があり、しかも死後の世界をコントロールする力があることを信者に示すことによって、生きている人々と現世をも支配することを可能としてきました。そのために、音楽も動員されてきたわけですが、それはカトリックの専売特許ではありませんで、たとえば日本では、稲作に大きな害をもたらす害虫が出てくるのは、怨霊のためだとして、わら人形を燃やしたり踊りと歌で怨霊を鎮めようという「虫送り」という行事がございます。ここで興味深いのは、日本では古来から祟りを恐れて、呪術的な方法で直接的に怨霊を鎮めようとするのに対して、西洋では神様や聖人を迂回して魂をに安息を与えようとしている点かと思います。このことを踏まえますと、「レクイエム」が日本では「鎮魂曲」と訳されていることも、死にまつわる文化の違いがもたらした誤解のなせる業とご理解いただけるかと思います。

参考サイト wikipedia:レクイエム wikipedia:煉獄


5.モーツァルトの《レクイエム》:聴いてみましょう
前置きがいささか長くなりました。ここからいよいよ、今日のメインディッシュとなります、モーツァルトの「レクイエム」について考えていきたいと思います。まずは、どのような曲か、ご存じない方もいらっしゃるかと思いますし、ご存知でも後の説明で必要となりますので、録音を聴いてみましょう。ただ、全曲を聴きますと50分程度かかりますので、主要な部分をかいつまんで参ります。

まず「入祭唱とキリエ」です。どのような内容かにつきましては、お手元のプリントをご覧ください(♪録音♪)。続きまして「続唱」です。ここはさらに細かく曲が分かれていまして、世の終わりである「最後の審判」の様子が描かれ、先ほども申し上げた執り成しの祈りが続きます。「続唱」の最後「Lacrymosa涙の日」の冒頭は、モーツァルトの絶筆となった個所で、特に名高い部分です(♪録音♪)。ここまでが前半で、後半は「奉納唱」から始まります。ここもモーツァルト自身の作曲ですが、不完全だったので友人や弟子の筆が入っています(♪録音♪)。その次は「サンクトゥス」・「ベネディクトゥス」と呼ばれる部分で、モーツァルトは指示はしたかもしれませんが書いてはおりません(♪録音♪)。そして最後に「アニュス・デイ」と「聖体拝領唱」という一続きの部分です。「アニュス・デイ」はモーツァルトのアイディアを元に完成され、「聖体拝領唱」は、第1曲の「入祭唱とキリエ」を再利用しています。この再利用は当時の習慣でもありました(♪録音♪)。

いかがでしたでしょうか。一般には前半はモーツァルト、後半は別人の作曲と言われていますが、それは誤りでして、後半にしてもモーツァルトの指示があったり、音楽が再利用されたりと、単純ではありません。その件につきましては、この後の映画「アマデウス」の説明の後、あらためて詳しく考えて参ります。

発表で用いたCDとは違いますが、こちらから全曲を聴けます。

モーツァルト《レクイエム》の曲目
I. 入祭唱とキリエ(Introitus et Kyrie)
1. Requiem aeternam dona eis, Domine.(永遠の安息を彼らに与えたまえ、主よ。)

II. キリエ(Kyrie)
2. Kyrie eleison.(主よ、憐れみたまえ。)

III. 続唱(Sequentia)
3. Dies irae, dies illa(怒りの日、その日は)
4. Tuba mirum spargen sonum(不思議なラッパの音が集める)
5. Rex tremendae majestatis(恐るべき威厳のある王よ)
6. Recordare Jesu pie(思い出したまえ、慈悲深いイエスよ)
7. Confutatis maledictis(呪われた者が退けられて)
8. Lacrymosa, dies illa(涙の日、その日には)

IV. 奉納唱(Offertorium)
9. Domine Jesu Christe(主イエス・キリストよ)
10. Hostias et preces tibi(賛美の生贄と祈りを共に)

V. サンクトゥス(Sanctus)
11. Sanctus, sanctus, sanctus(聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな)
12. Benedictus qui venit(主の名において来る者は祝福されるように)

VI. アニュス・デイ(Agnus Dei)
13. Agnus Dei, qui tollia peccata mundi(世の罪を除きたもう神の小羊)

VII. 聖体拝領唱(Communio)
14. Lux aeterna luceat eis, Domine(永遠の光で彼らを照らしたまえ、主よ)


《レクイエム》完成への経緯
●1791年
8月 見知らぬ死者から作曲依頼が入る。
10月 作曲開始。
11月 モーツァルトの体調悪化。レクイエムが死の世界からの依頼で、自分のために作曲していると思い込む。
12月 モーツァルト死去(5日)。ここまで、「入祭唱とキリエ」完成。「続唱」は最後の「涙の日」の8小節まで、「奉納唱」は全体が、基本部分はモーツァルトの手によって残された。

「サンクトゥス」および「ベネディクトゥス」、「アニュス・デイ」と「聖体拝領唱」は草稿なし。全曲を完成させるために、未亡人コンスタンツェはまず、ヨーゼフ・アイブラーに依頼。しかし、アイブラーが途中で放棄し、次いで弟子ヤコブ・フライシュテットラーとジュスマイヤーに依頼し、最終的にジュスマイヤーが補筆完成させた。

●1793年 12月 ヴァルゼック伯爵の自作として、ヴィーンにて初演。しかし、その後、コンスタンツェが手元にあったコピーから、モーツァルトの作として出版。以後、ジュスマイヤーが補筆した個所を評価しない学者たちにより、独自の版が多数作られて今日にいたる。


6.映画《アマデウス》について:音楽史的には間違いだらけ
映画「アマデウス」は、イギリスの劇作家ピーター・シェーファーの戯曲「アマデウス」を元に制作されたアメリカの映画で、1984年にアメリカでは封切られて、アカデミー賞8部門を受賞した名作です。ご覧になっていない方はいらっしゃいますか? ご覧になっていたとしても、これから先のお話がございますので、思い出していただくために、まずストーリーを確認しておきたいと思います。

この映画の主人公は、モーツァルトではなくサリエリです。サリエリは1750年(モーツァルトは56年生まれです)、イタリアに生まれた作曲家で、18世紀の後半にオーストリアのヴィーンに移り、皇帝ヨーゼフ2世の宮廷作曲家、宮廷楽長を務めました。映画では、少年期に、天才として評判になったモーツァルトのようになりたいと神に祈り、モーツァルトの音楽の美しさに恍惚となり、しかしながら品のないモーツァルトの人柄を知ったことで、神はなぜこんな男に才能を与えたのかと嫉妬し、そしてモーツァルトの音楽が評価されないように政治力を発揮して邪魔をし始め、彼を追い込んでいきます。そして、父親を亡くして、わがままに生きたことで罪悪感を抱いているモーツァルトに近づきまして、「死の音楽」である「レクイエム」を、偽の注文主をでっちあげまして書かせます。モーツァルトはサリエリの思惑通り、「レクイエム」の作曲にのめりこみ、病をおしても作曲を続け、とうとう死んでしまいます。こうした物語を、サリエリは精神病院と思われる施設で若い神父に告白するわけですが、かつては名声を博したサリエリの作品を神父はまったく知らず、病のうちに死んで共同墓地に投げ入れられたモーツァルトの作品は、(♪アイネ・クライネ・ナハトムジーク♪)とサリエリがピアノで弾くと、すぐに「知ってます。あなたの作品だったのですか!」というように、歴史に残ったことをつきつけられるのでした。

参考サイト
wikipedia:アマデウス(映画)
DVD(Amazon)
アマデウス ― ディレクターズカット スペシャル・エディション [DVD]

ちなみに、この映画のタイトルであります「アマデウス」とは、モーツァルトの名前なのですが、「神に愛された者」という意味があります。これは単に、神に愛された天才ということではなく、神に愛されることの恐ろしさ、つまり、神が自分の言葉を預ける人間として選ばれると、現実の世界では苦しいばかりで報われることがないというテーマがあるように思います。このことは、キリスト教の旧約聖書に登場する預言者の境遇と似ているかもしれません。また、モーツァルトを通して神の言葉が音楽として流れ出るというサリエリの見方、つまり作り手の音楽観は、19世紀のロマン主義的なもののように思えます。こうした深読みができるのも、この映画の面白さの一つと言えるでしょう。

さて、以上のようなストーリーは、サリエリが晩年「私がモーツァルトを殺した」と言っていたという話、モーツァルト自身「サリエリが邪魔をしている」と語っていた事実に基づいているのですが、おそらくは宮廷でイタリア人作曲家が幅を利かせていて、オーストリア人やドイツ人が出世することが難しかったという事情が関わっているものと考えられております。つまり、サリエリ殺害説には、証拠はまったくありませんし、サリエリの音楽は今日、再評価されつつありますし、彼はベートーヴェンやシューベルト、リストを教えたことでも知られています。何より、モーツァルトの息子フランツ・クサヴァーは、サリエリの指導を受けております。

もう一つ、「レクイエム」の成り立ちに関わっていることですが、この作品を注文した人物は実在していました。その人物は、フランツ・フォン・ヴァルゼック・シュトゥーパハ伯爵というアマチュアの音楽家で、なんと、有名な作曲家たちに作品を依頼して、その楽譜を自分で書き写して、自らの作品として披露するという趣味を持っていました。そして、奥さんを亡くして「レクイエム」が必要だということになって、白羽の矢が立ったのがモーツァルトだったのです。モーツァルトは「レクイエム」を完成することができなかったのですが、未亡人となったのコンスタンツェはお金が欲しいものですから、モーツァルトの友人や弟子に頼んで何とか完成させて、伯爵に手渡しております。


7.《レクイエム》の原曲:ツギハギだらけの絶筆
このようにして完成した「レクイエム」ですが、音楽の様式を細かく見ていきますと、面白いことが分かってきます。というのは、作品の各所で、モーツァルトにゆかりのあります作曲家の作品が顔を出すのです。先ほど聴きました録音を思い出しながら、そしてプリントを見ながら、元になった作品もさわりだけになりますが聴いてみましょう。

まず、「入祭唱」ですが、ここにはガスマンというオーストリアの作曲家の「レクイエム」を聴くことができます。この作品はCDが出ておりませんので、コンピュータで作ってみました(♪録音♪)。どうでしょうか。「♪ラーララララー♪」というメロディーが同じですし、メロディーが各パートに引き継がれていく流れも同じですね。このガスマンという作曲家は、やはりヴィーンの宮廷楽長で、サリエリを教え、引き立てた作曲家です。モーツァルトにとっては、偉大なオーストリアの巨匠といったところでしょうか。

ガスマン:レクイエムより「入祭唱」前奏(管理人作成のデータ。楽器指定は適当です。)

次に、「キリエ」のメロディー(♪キーリエエレーイソン♪)は、あのヘンデルの「メサイア(救世主)」から採られています(♪録音♪)。「♪アンドウィズヒズ~♪」のメロディラインはまったく同じです。モーツァルトはこの「メサイア」を編曲していたことがわかっております。それから、録音は割愛しますが、同じヘンデルの「シオンの道は悲しみ」という葬送音楽も、前後しますが「入祭唱」で引用されています。

ヘンデル:メサイアより「And with his stripes we are healed」
ここから全曲をダウンロードできます(著作権切れの録音)

次の「続唱」については、に原曲があるかどうかは、はっきりしたことは分かっていませんが、曲の一部で、フランスで活動したゴセックの「レクイエム」との類似性が指摘されております。

ゴセック:レクイエム
ここから各曲の冒頭を試聴できます(NAXOS)。

「奉納唱」につきましては、有名なハイドンの弟でありますミヒャエル・ハイドンの「レクイエム」との類似性が指摘されています(♪録音♪)。ミヒャエル・ハイドンは、モーツァルトが生まれ育ったザルツブルクで活動しておりまして、1771年に「レクイエム」を作曲しました。この作品をモーツァルトは当然知っておりまして、「フリーメーソンのための葬送音楽」には一部を直接引用しております。

ミヒャエル・ハイドン:レクイエム
ここから各曲の冒頭を試聴できます(NAXOS)

さて、日本では弟子のジュスマイヤーが作曲したと一般に思われております、その後の「サンクトゥス」ですが、これにも原曲がありまして、それは有名なバッハの長男でありますウィルヘルム・フリーデマン・バッハの「ドイツ・ミサ曲」の「サンクトゥス」にあたる曲です。これは録音がないことと、まったく同じ音楽なのでお聴きいただく必要はないかと思います。ちなみに、「サンクトゥス」冒頭のソプラノのメロディは、「続唱」冒頭のソプラノと同じです。ここにも何らかの意図があるかもしれません。

以上のように、モーツァルトは自分の先輩にあたるドイツとオーストリアのマイスターたちの音楽を採りこんでいるわけですが、こうしてみると、映画「アマデウス」では、《レクイエム》の成立について、ずいぶんと事実に反していることが描かれているとお分かりになるかと思います。別の言い方をしますと、今日のモーツァルト像や「レクイエム」の印象が、この「アマデウス」から影響を受けていいるとしたら、それは娯楽作品として目くじらを立てることはないのかもしれませんが、宗教音楽学者からしますと、事実は事実として伝えなければいけないのではないかな、と思う次第です。

年表
1600 バロック音楽の始まり(フィレンツェ) *日本では関が原の戦い。
1732 J.ハイドン生まれる(オーストリア・ローラウ。~1809)
1750 J.S.バッハ死去。この頃、バロック音楽が終わる。
アントニオ・サリエリ生まれる(イタリア・レニャーゴ)
1756 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト生まれる(ザルツブルク)
1770 ベートーヴェン生まれる(ボン。~1827)
1771 ザルツブルク大司教、シュラッテンバッハからコロレードへ
1781 モーツァルトがヴィーンへ移住
J.ハイドンが古典派のソナタ形式を確立。
1784 オーストリア、オーケストラ伴奏つき教会音楽を禁止(~91)
1787 レオポルト・モーツァルト死去。
1788 サリエリ、宮廷楽長に就任。
1789 フランス革命
1791 モーツァルト死去(ヴィーン)。遺作《レクイエム》。
1804 ナポレオンがフランス皇帝に即位。サリエリ《レクイエム ハ短調》
1814 ヴィーン会議(ナポレオン戦争終結)
1825 サリエリ死去。
1829 メンデルスゾーンによりバッハの《マタイ受難曲》復活演奏。


8.巨匠たちへのオマージュ
では、モーツァルトが、こうしたパクリないしパロディを行ったのは何故なのでしょうか。ここが、今日の私の発表の核心でもあります。モーツァルトの音楽活動を振り返りながら考えて参りたいと思います。

モーツァルトは、1756年にオーストリアのザルツブルクに生まれまして、小さい頃から天才振りを発揮したことから、父親の英才教育を受けるとともに、ヨーロッパ各地を回り、その土地の音楽を吸収しました。ところがザルツブルクでは、たいてい悪役として描かれるコロレード大司教の下、創作活動は制限されていました。たとえばミサ曲については、ミサ全体が45分以内と制限されていたため、音楽はごく短いものしかありえませんでした。作曲家にとってはつまらない状況で、結局、1781年、モーツァルトはザルツブルクを飛び出してヴィーンに向かいます。ヴィーンで、オペラやコンチェルト、シンフォニーに室内楽というジャンルで自分の書きたかったものを創作していくわけですが、それと同時に、映画「アマデウス」にも登場しておりましたヴァン・スヴィーテン男爵の図書室で、ドイツ・オーストリアの巨匠たちの音楽を知ることとなります。ここから、それまで軽い作風だったのが、1世代・2世代前の音楽様式も採りこんでいくこととなります。「レクイエム」が、モーツァルトのその他の音楽と比べて重々しく古めかしく感じられるとしたら、そうした事情があるかと考えられています。

しかし、それだけでは、「レクイエム」の「パクリ」は説明できません。モーツァルトはその他の作品で、こうしたことをしていないからです。もちろん、ヴァルゼック男爵の趣味に対応して、本当の作曲者を分かりにくくしたかったとか、男爵が古い音楽をよく勉強していることをアピールできるよう気を利かせた、といった理由もあるかもしれませんが、私には、モーツァルトが、死を予感して、ドイツ・オーストリアの伝統に連なったことを証するため、巨匠たちに敬意を表しているように思えるのです。少なくとも、バロック時代には、他の作曲家の作品を引用するというのは、決して剽窃ではなく、むしろ敬意を払う行為でした、モーツァルトが生きた時代には、おそらくオリジナリティが重視され始めていましたが、すぐ前の時代のこうした美学は残っていたのではないでしょうか。

歴史に「もし」は禁句であると言いますが、もしモーツァルトが生きながらえていたら、もちろん「レクイエム」を完成したでしょうし、古典を元に、美しく重厚な音楽を創作していたものと思われます。私は、高校1年のときにモーツァルトの「レクイエム」と出遭ったのですが、このように音楽を研究するようになって、こうした仮説を立ててみますと、あらてめて新鮮な気持ちで聴いたり演奏したりできるようになりました。恩師の「宿題」に少しだけですが答えることができたような気がいたします。


9.さいごに:まとめと今後の課題
それでは、せっかくの機会ですから、お時間の許す限り、その他の「レクイエム」もご紹介しておきたいと存じます。

まずは、グレゴリオ聖歌の「レクイエム」です。グレゴリオ聖歌は、9世紀から10世紀にかけまして成立した聖歌で、1本のメロディーだけでハーモニーのない歌です。その「レクイエム」の中で最も知られておりますのが、「続唱」の「Dies irae」(怒りの日)で、先ほど申しましたように、最後の審判を描いた詩に曲を付けたものです。これは歌ってみます(♪Dies irae, dies illa~♪)。もしかすると、どこかで聴かれたことがあるかもしれません。その後のクラシック音楽でたびたび引用されたり、映画などでも世界の終わりを描いたシーンではよく引用されております。

次に、時代は飛びますが、「新世界より」で有名なドヴォルザークにも「レクイエム」がございます。冒頭をお聴きください(♪録音♪)。この作品では、「♪死のテーマ♪」が随所に使われて、作品全体が統一されているのですが、ただ1個所だけ「サンクトゥス」では使われておりません。私の考えですが、「サンクトゥス」の歌詞は「聖なるかな、万軍の神である主、主の栄光は天地に満ちている。天のいと高きところには主にホザンナ」と、死すべき人間が登場しないからだと思います。

ドヴォルザーク:レクイエム
ここから各曲の冒頭を試聴できます(NAXOS)。

それから、フランスの作曲家ガブリエル・フォーレの「レクイエム」も有名です。太平洋戦争で出征された学徒の手記を読んだことがあるのですが、自分が死んだらこの作品のレコードをかけて欲しい、とありました。フォーレは、あえて劇的な部分を避けて、優しい音楽を作曲しました。死者の魂が慰められるとしたら、このような音楽だろうなと思います(♪Pie Jesu♪)。

フォーレ:レクイエム
ここから各曲の冒頭を試聴できます(NAXOS)。

それから、「レクイエム」はカトリックのものと言いましたが、ラテン語ではなくドイツ語で書かれた作品がございます。ブラームスの「ドイツ・レクイエム」をご紹介いたします。この作品は、ミサで用いるためのものではなく、歌詞もブラームスが選んでおりますが、おそらく意図的に「イエス」、「キリスト」、「マリア」といったキーワードは除外されています。これも私の考えですが、大ドイツ主義をとっていたビスマルクを尊敬していたブラームスは、カトリックであれ、プロテスタントであれ、さらにはユダヤ人であれ、ドイツ人であるなら誰もが聴くことのできる、演奏することのできる作品を書いたのではないかと思います。その「ドイツ・レクイエム」の第2楽章は3拍子の葬送行進曲です(♪録音♪)。

ブラームス:ドイツ・レクイエム
ここから各曲の冒頭を試聴できます(NAXOS)。

では、最後になります。サリエリもレクイエムを残しておりますので、1804年に自分の葬式にと書かれました《レクイエム ハ短調》のはじめの部分を聴いていただきたいと思います。サリエリの音楽は「アマデウス」では忘れられていったことがほのめかされておりまして、実際、死後は次第に人気も凋落していったわけですが、皮肉なことに「アマデウス」のお陰もあって、再評価されつつあります。サリエリがほんとうに才能のない作曲家であったのか、ご判断は皆様に委ねたいと存じます(♪録音♪)。

サリエリ:レクイエム
ここから各曲の冒頭を試聴できます(NAXOS)。

「死の音楽」というテーマで、「レクイエム」とりわけモーツァルトの作品を中心にお話をして参りました。同じ「レクイエム」でも、その死の描き方は異なっておりますし、これがルネサンスやバロックのレクイエム、20世紀のレクイエムまで視野に入れますと、音楽のあり方はさらに多彩なものとなります。また、死をテーマに据えた音楽には、レクイエムの他にもさまざまなものがございまして、プロテスタントや正教会の葬送のための音楽もありますし、教会を離れて、またクラシックを離れてもたくさんの曲があろうかと思います。たとえば歌謡曲にも、ちあきなおみが歌いました「喝采」といった名曲がありますし、はじめに触れました「川の流れのように」を人生を振り返る歌と捉えますなら、死を視野に入れた歌を考えることも可能でしょう。そうした音楽につきましても、いろいろと考えるところはございますが、今日はこのあたりでご容赦いただきたいと思います。

宗教的な音楽の研究につきましては、ひとの気持ちが深く関わるものですから心理学的な視点が必要な場合もありますし、宗教学の視座が不可欠なことも多々あります。なかなか一筋縄でいかない分野でして、私もまだまだ足りないところがたくさんございます。今後の課題を考えますと、気が遠くなるような思いなのですが、なんとか研究していきたいと思います。はじめに申しましたように、こうした研究によりまして、一人ひとりの音楽の聴き方と聴こえ方が何か変わりまして、音楽という芸術文化を自分たちで創造し、深めていくことにつながりましたら望外の喜びでございます。ご清聴ありがとうございました。あとは、皆様のご感想とご意見を賜りたいと存じます。